義経追放

文治元年・1185年4月、平氏追討で侍所所司として義経の補佐を務めた梶原景時から、義経を弾劾した書状が届く。

4月15日、頼朝は内挙を得ず朝廷から任官を受けた関東の武士らに対し、任官を罵り東国への帰還を禁じるが、同じく任官を受けた義経には咎めを与えなかった。

景時の書状の他にも、範頼の管轄への越権行為、配下の東国武士達への勝手な処罰など義経の専横を訴える報告が入り、5月、御家人達に義経に従ってはならないという命が出された。

その頃義経は平宗盛父子を伴ない相模国に凱旋する。

しかし頼朝は義経の鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れる。

腰越に留まる義経は、許しを請う腰越状を送るが、頼朝は宗盛との面会を終えると、義経を鎌倉に入れぬまま、6月9日に宗盛父子と平重衡を伴なわせ帰洛を命じる。

義経は頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成すの輩は、義経に属くべき」と言い放つ。

これを聞いた頼朝は、義経の所領を全て没収した。

義経が近江国で宗盛父子を斬首し、重衡を自身が焼き討ちにした東大寺へ送ると、8月4日、頼朝はかつて源義仲に属した叔父源行家の追討を佐々木定綱に命じた。
update:2010年03月07日